えさ台に鳩がくる

日々の思ったこと、書く

記名は記名押印、署名は署名捺印の略。まことしやかに語られる誤解とそのルーツに迫る。

※結論だけ知りたい人はここを読んでほしい。

 最近、記名は記名押印、捺印は署名捺印の略だという記事が散見される。しかし、そんなことはない。昔は捺印という語が用いられていた(というよりは、捺印と押印が区別されず用いられていた)。これが、政府の単語を統一しようという方針のもと「押印」に一本化されただけである。なので、両者は全く同じ意味だ。それ以上の情報を知りたい人は以下の本文を読んでほしい。

 

 先日仕事のメールをチェックしていたら、「捺印」という言葉のあるのを発見した。普段は自分も周囲も「押印」という言葉を使っていた。ゆえに「捺印」という言葉を久しく見聞きしていなかったし、「そんな言葉もあったなあ」という感慨に浸っていた。ふと「捺印」と「押印」とは使い分けられるのかという疑問が起こった。正直、過去も現在も僕は両者の言葉に意味上の違いはほとんどないと思っていた。しかし、インターネットで検索をしてみると僕の知らない両者の区別が唱えられていることに気が付いた。それが、タイトルにもかかげる「署名捺印説・記名押印説」だ。そこで、この説について紹介するとともに自分なりに考察を加えてみたい。

 

 

第1 署名捺印・記名押印説とは

 署名捺印・記名押印説(以下「記名押印説」という)とは、簡潔にいえば「押印」は「記名押印」が省略されたもの、「捺印」は「署名押印」が省略されたものであるとする説である。ここでは、この説を紹介する代表的なWEBサイトを紹介する。

bizer.jp

 ここでは、このように紹介されている。

捺印(ナツイン)と押印(オウイン)の違いはなんでしょうか?捺印と押印は、どちらも印鑑を押す(捺す)という意味に変わりありません。

捺印とは署名捺印が略された呼び名となります。
押印とは記名押印が略された呼び名となります。

つまり「署名」か「記名」かによって、「印鑑を押す行為」の呼び方が変わってきます。自分が名前を手書きした書類に印鑑を押す行為を「捺印」、手書きでない名前が記載された書類に印鑑を押す行為を「押印」と呼びます。

 つまり、記名か署名かによっていわゆる「はんこをつく」行為の呼び方が変わるのだ。なお、記名は「氏名を記載すること」、署名は「自署すること」である(内閣府地方公共団体における押印見直しマニュアル」3頁等)。そのため、もしこの区別が本当であるならば「捺印」を求められた際に記名とともにはんこをついてしまったら一大事ということになる。

 

第2 捺印と押印は使い分けられているのか

   1 字義の解釈

   まず、「捺」と「押」という字が使い分けられているのか。換言すれば、両者の間に  なにか署名又は記名の概念となじみやすい意味が含まれているのかを検討する。両者の間にそのような要素が含まれていないとすれば、「押印」と「捺印」との間には意味上の違いはないことになる。そうであるならば、字義的には記名に押印、署名に捺印でなくてもよいことなる。

 今回使用した辞書は、大修館書店『新漢語林』、諸橋轍次ほか『新漢和辞典』(改訂版)、『漢字辞典ONLINE』(https://kanji.jitenon.jp/)、漢典(https://www.zdic.net/)である。意味をまとめる以下のようになる。

 

漢辞林

1.おす。おさえる。

2.かきはん。自分の名の下に各様式化したマーク。

1.おす。おさえつける。

新漢和辞典

1.かきはん。

2.おす。また、おさえる

1.おす。おさえつける。

漢字辞典

ONLINE

1.おす。おさえる。おしつける。

(中略)

4.かきはん。署名。また署名の代わりに用いる記号。

おす。上からおさえつける。

漢典

契約書にサインまたは記号を書く

手で押さえる、抑制

 以上から、両者とも意味は基本的な意味は「おす」である。また「押」の方には、「署名する」という意味すらあることがわかった。そうすると、むしろ押印の方が署名になじみやすいのではないかとさえ思える。少なくとも字義上は、捺印(印ヲ捺ス)が署名と親和性があるとはいえない。いずれにしても「印をオす」行為が「押印」であり「捺印」であるから、両者に字義上の違いはほとんどないといえるだろう。

2 使い分けがされているのか

 「押印」と「捺印」との間には字義上の違いはなかった。それでは、実社会で両社は区別されて使用されているか、または「押印」は「記名押印」の「捺印」は「署名捺印」の略として使用されているのか検討する。この説を取り上げるサイトの多くが法的な話と関連付けて記事を作っているため、法律・行政においてこのような使い分けがされているかという視点で検討する。

⑴ 法律

 まず法律上に「捺印」が用いられている例を挙げる。一つ目は「外国人ノ署名捺印及無資力証明ニ関スル法律」である。法令名にも「署名捺印」の語が出ている。もっとも第1条の内容はこうだ。

1項 法令ノ規定ニヨリ署名、捺印スヘキ場合ニ於テハ外国人ハ署名スルヲ以テ足ル

2項 捺印ノミヲスヘキ場合ニ於テハ外国人ハ署名ヲ以テ捺印ニ代フルコトヲ得

 

 1項では、「署名」と「捺印」との間に読点が打たれている。そのため、法令名の「署名捺印」とは「署名」「捺印」を並列させたものであると考えられる。また、2項は「捺印ノミヲ為スヘキ場合」と規定していることから、ここでいう捺印は署名が予定されない捺印を含んでいることになる。したがって、この法令上は「署名捺印」の略として「捺印」は用いられていないことになる。

 二つ目は「手形法」である。附則82条は以下のように規定する。 

本法ニ於テ署名トアルハ記名捺印ヲ含ム

ここでは、記名捺印という語が出ている。一方で政治資金規正法14条3項の規定はこうだ。

 

前二項の規定により引継ぎをする場合においては、引継ぎをする者において引継書を作成し、引継ぎの旨及び引継ぎの年月日を記載し、引継ぎをする者及び引継ぎを受ける者においてともに署名捺印し、現金及び帳簿その他の書類とともに引継ぎをしなければならない。

 

 次に法令上に「押印」が用いられている例をあげる。民事訴訟法228条4項は以下のように規定する。

私文書は、本人又はその代理人の署名又は押印があるときは、真正に成立したものと推定する。

 また、商法546条本文は以下のように規定する。

当事者間において媒介に係る行為が成立したときは、仲立人は、遅滞なく、次に掲げる事項を記載した書面(以下この章において「結約書」という。)を作成し、かつ、署名し、又は記名押印した後、これを各当事者に交付しなければならない。

 

 ここでは、記名押印の語が出ている。なお、署名押印の例は見つからなかった。もっとも、民事訴訟法の規定における「押印」が記名押印のみをさすとも考えられない(つまり署名に押印してもよい)。押印・捺印は署名、記名双方と結びつく言葉であり、押印と捺印との間に厳密な使い分けは法令上は存在しないといえそうである。なお捺印という単語が出現する法令は古いものが多く、「捺印」という言葉が「押印」に入れ替わったものといえそうである。実際、大正15年民事訴訟法326条(以下「旧民事訴訟法」という)が現行民事訴訟法228条に対応する条文であるが、そこでの規定は以下の通りであった。

私文書ハ本人又ハ代理人ノ署名又ハ捺印アルトキハ之ヲ真正ナルモノト推定ス

 

 新旧いずれにしても当該規定は、「署名」か「はんこ」があれば文書が真正に成立したと推定する規定であるが、署名があればはんこがなくても文書の真正は推定されるため、旧規定の「捺印」を「署名捺印」であると解すると、「捺印アルトキハ」との規定は無意味な規定になる。そのため、旧民事訴訟法の「捺印」を「署名捺印」と解することはできないであろう。そうすると、法令上の「捺印」は「押印」の古い言い方であり、意味は同一であるものの民事訴訟法は改正の際にこれを改めたと考えるしかない。実は、このことは、他の文書から明らかなのであるが、それは後述する。

⑵ 行政

 「捺印」の語を用いている文書として平成2年運輸省告示第588号「標準鉄道利用運送約款」がある。付保46条1項は以下のように規定する。

利用運送の申込に際し、当社の申出により荷送人が承諾したときは、当社は、荷送人の署名又は記名捺印をいただき、荷送人の費用によって運送保険の締結を引き受けます。

  一方で、押印を用いる例は散見される。ここでは一例のみあげる。菅内閣発足当初の目玉政策?であった「脱はんこ」に関する「地方公共団体における押印見直しマニュアル」(内閣府)がそれだ。タイトルにも「押印」が使用されているが、注目すべきは以下の部分である。

(ii)署名見直しの判断基準

 署名については、一連の行政手続の中で押印と同時に、又は押印の代替とし

て求められることが多いため、押印見直しに併せて署名も見直すことが課題に

なります。押印を見直した場合において署名を見直すにあたっての判断基準は

以下のとおりです。

基準①根拠規定が「署名及び押印」:署名を求める実質的な意味の有無

解説:署名及び押印の両方を求めている手続について、押印を求めず署名のみ

を残すことは手続の簡素化であり、署名に実質的な意味があると考えられる場

合には、引き続き、署名を求めることは認められるものと考えられます。

基準②根拠規定が「署名又は記名押印(認印可)」

                :署名を求める実質的な必要性の有無

解説:署名、記名押印のうち、いずれか一方のみを求めている手続について、

記名押印のみを廃止し、全ての申請者に署名を求めることは、申請者の選択肢

を狭め、実質的に規制強化となりますので厳しく検証することが求められます。

記名押印(認印可)により代替可能とされてきた署名についても、原則として

不要と考えられます。

 ここで、基準①の「押印」を「記名押印」と解する場合、署名の上にさらに記名をしなくてはならないことになる。しかし、そのように解釈するのは無理があろう。そのため、ここでの「押印」は単に「はんこをつく」行為であると考えられる。そうであるならば「署名及び押印」という語は、「署名押印」を意味することになる。ここでも、「押印」は「記名押印」、「捺印」は「署名捺印」という語の使い分けはなされていないといえる。

実は「捺印」を用いる文書は古いという根拠が存在する。それは平成22年11月30日内閣法制局総総第208号「法令における漢字使用等」である。同文書⑹は以下のように公用文のルールを定めている。 

次のものは、( )の中に示すように取り扱うものとする。

(中略)

捺 印(用いない。「押印」を用いる。)

すなわち行政や法令上では、捺印は押印と同義であり、両者の違いは法令が古いか否かのみであるといえる。

第3 小括

 以上から、「捺印」、「押印」の間には字義上の違いはないこと、法令上・行政文書は「捺印」、「押印」、「署名及び押印」、「記名捺印」、「記名押印」、「署名捺印」の語が混在していること、このような混在は公用文ルールの変化により「捺印」を用いない運用になり、代わりに「押印」を用いるようになったためであることが判明した。以上から「押印」と「捺印」は同義であり、両者は「署名捺印」、「記名押印」の略でないことといえる。

第4 署名捺印・記名押印説のルーツ

 では、このような説はいつから発生したのであろうか。また、なぜそのような説が発生したのであろうか。この説を取り上げる以下のサイトを例に検討する。

  1. 押印と捺印の違いについて(以下「呼び名」という)
  2. 「押印」と「捺印」の違いとは?ハンコにまつわる豆知識①(以下「ドキュサイン」という)
  3. 「押印」と「捺印」の違いとは?正しい使い分けや敬語表現も解説 | TRANS.Biz(以下「トランスビズ」という)
  4. 「押印」と「捺印」 (半沢直樹でもでてきました) | よしどめ内科・神経内科クリニック(以下「よしざわ内科」という)
  5. 「捺印と押印」の違い、「印鑑とはんこ」の違い、「署名と記名」の 違いが分かりますか? | 想いをしるしに(以下「小林大伸堂」という)
  6. 「署名」と「記名」、「捺印」と「押印」はどう違う?法的効力にも関わる知っておきたいこと! | Bizer(以下「Bizer」という)
  7. 押印と捺印の違いとは? 使い分けや電子印鑑を使うメリット・デメリットを紹介 - オフィスのミカタ(以下「オフィスのミカタ」という)
  8. 「記名」と「署名」、「押印」と「捺印」って何がちがうの?(以下「ドリハム」という)
  9. 「捺印」と「押印」の違いって何? 言葉の意味や使い分け方とは?【ビジネス用語】 | マイナビニュース(以下「マイナビ」という)
  10. 署名捺印・記名押印・契印・割印・捨印〜契約書に押す印の意味を正しく理解しよう | キムラボ 税理士きむら あきらこ(木村聡子)のブログ(以下「キムラボ」という)
  11. 署名と記名、捺印と押印|知っておいて損はない!【はんこ豆事典】(以下「豆事典」という)

   どのサイトも基本的な構造として、押印と捺印の語の違い、押印のみ、記名押印、署名のみ署名押印それぞれの法的な効力に違いという構成でなりたっている。もっとも法的な効力については、「証拠能力」、「証拠力」、「証明力」、「信頼性」など表記に揺れがある。なお、「証拠能力」や「証明力」の概念は異なるし「信頼性」という語も文書の内容の信頼性という意味であれば、押印の有無と本質的には関係ないので、法的効力の説明についても誤りが見受けられるサイトがある。以上から、これらのサイトはある文書又はある文書を引用した別の文書から派生していったと考えることができる。そこで各サイトの投稿日時や更新日時、法律上の効果の理解に関する誤り、引用条文の傾向からどれがより古いものであるかを検討する。ここでより古いといわれるものがこの説の源流である可能性が高い。

サイト

日時

法的効力

引用条文

書き方

タイプ

小林大伸堂

14.12.9

効力

なし

非断定調

印鑑業者

Bizer

16.9.29

証拠能力

民訴228

商法32

断定調

ビジネス

マイナビ

19.2.19

法的効力

商法32

断定調

ビジネス

ドリハム

19.7.10

法的効力

なし

断定調

不動産

キムラボ

19.7.18

証拠能力

なし

断定調

ビジネス

トランスビズ

19.10.10

証拠能力

なし

断定調

ビジネス

ドキュサイン

20.11.19

証明力

なし

断定調

ビジネス

よしざわ内科

20.12.18

記載なし

なし

断定調

日常ブログ

オフィスのミカタ

20.12.23

効力

商法32

断定調

ビジネス

呼び名

不明

証拠能力

なし

非断定調

印鑑業者

豆事典

不明

証拠能力

商法32

非断定調

印鑑業者

 

    このようにみると、記録上は小林大伸堂の記事が最も古い。しかしながら、豆事典の方が記事としては古く、記名押印説の出所はこのサイトであると考えている。

まず引用条文としては商法32条が最も多い。そのため、この説の元となった記事には商法32条を引用されていたと考えられる。また、商法32条は平成30年5月に削除されているため豆事典はそれ以前に書かれた可能性が高い。さらに、豆事典のみが「新商法」という記載をしている。2005年改正によって、商法32条に署名関連の規定が追加された。そうであるならば、商法についてわざわざ「新」と断っている豆事典はこの時期に作られたものである可能性が高い。また内容も「捺印と押印の違いにつきましては、どちらも“ハンをおす”という行為を表している言葉であり、「押捺」(おうなつ)という言葉もあるぐらい、全く同じ意味を持ち、使い分けられることも少ない言葉です。当店では、署名という行為が並行してあるものに捺印(捺す)の文字を使い、記名した場合や印鑑のみを押すだけの行為に対して、押印(押す)の文字を使い、両者を使い分けています。」と最もマイルドである。豆事典では店の独自ルールとして、「捺印」と「押印」を使い分けていると述べている。もし、世間一般や業界一般でそのような使い分けがなされているのであれば、このように断る必要はまったくない。このことからも、このサイトの記載が古いものと判断した。したがって、記名押印説は、このサイトで述べられている独自ルールが一般常識のように変容していったものと考えられる。

 表を見ると、記名押印説を取り上げているのは、印鑑業者とビジネス関係のサイトが多い。印鑑業者のサイトの記事は、捺印と押印の違いはないがしいて言うならば捺印は署名とセットというような非断定的な記載となっている。投稿はビジネス系の記事を中心に2019年が多い。さらに、19年最初の記事は、閲覧数も多く影響力が強いと思われるマイナビの記事である。一方で印鑑業者のものは、これ以前と推定されるものが3件中2件である。

 したがって、もともと印鑑業者が「しいて言うなら」等の前置きを置いて独自の解釈として使い分けを行っていた押印、捺印の語をマイナビ掲載の記事の執筆担当者が参照し「ハンコ業者がそういっているならば、それが正しいだろう」という意識の下、断定調の記事にしたものであろう(このあたりの経緯は、A玉B玉説に近いものを感じさせる)。これを見た他の記事執筆者がマイナビ記事を引いて記名押印説が定着していったものと思われる。

第5 結語

 今回は、記名押印説のおそらく源流といえる記事が発見され、その内容が変質・定着する過程をおぼろげながら追うことができた。他のネット語源説もたいてい同じような経緯をたどっているのではないかと思われる。

北原白秋と都市伝説と

1イントロダクション

 

 北原白秋は、僕の大いに好む詩人だ。彼の名は、多くの人にとっては、短歌や詩としてよりも童謡の方で有名であろう。

その中でも特に有名な作品は「あめふり」で間違いないと思う。

この「あめふり」童謡ながら、非常に詩的であって、素晴らしい作品である。

最も有名な歌詞は以下の1番の歌詞だろう

 

あめあめ ふれふれ かあさんが

じゃのめで おむかい うれしいな

ピッチピッチ チャップチャップ

ランランラン

 

 雨というモチーフは、どちらかというと暗いネガティブなものである。皆さんも雨の日はなんとなく気分が塞ぐだろう。その雨を題材にしているのに二言目は「ふれふれ」とくる。ここで、本来降ってほしくない雨に対してもっと降れと来ている不思議な感覚から、読者は詞の世界に一気に引き込まれる。しかし、なぜかというのはすぐわかる、母親が迎えに来てくれるからだ。ここで雨と母親が来てくれる嬉しさが融合する。雨音と子供の足音の軽やかさがまじりあったオノマトペで締めくくられる。

非常にきれいでまとまった無駄な部分のない美しい詞であると思う。

 このように「あめふり」の詞は卓越した名作である。しかし、この詩にも都市伝説が存在する。内容は細部が微妙に異なっているものの大枠では以下のサイトに掲載されているようなものである。冒頭の怪談部分は、今回扱う内容とあまりに異なるためあえて言及しないが、歌詞についての部分については、軽く触れておきたい。

 

www.kkbox.com

33man.jp

 

この都市伝説は、以下のような構成でできている。

1,「あめふり」の3番に出てくる「少女」は霊的な存在である

2,「あめふり」の詞は傘をさしてもらえない少女の嫉妬と怨念の歌である

3, ゆえにこの歌の3番以降をうたうと呪われる

 

 要は、3番歌詞でいきなり出てきた「ずぶ濡れの子」に対する違和感が恐怖に置き換わって、このような噂が発生しているのということになる。そこで、今回は①「あのこ」の登場する意味が他に説明できるか②都市伝説のいうようなストーリー以外の解釈ができないかについて述べたい。「あのこ」を出す意味が詩的に存在し、都市伝説でいわれるような解釈以外のより無難な解釈ができるのであれば、私はそちらの方がより信憑性が高いと思う。

 

2「あのこ」の存在意義

 「あめふり」は大正14年に発表された作品である。全部で5番まである。以下がその歌詞である。

 

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

 

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

 

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

 

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

 

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン 

 問題になっているのは、3番で確かに見てみると他と雰囲気が違う。

では、3番の意味とは何か。僕は、起承転結でいうところの転句の意味を持たせてあるのではないかと思っている。このことは、「あのこ」の登場が3番であることとも整合する。

1番は先ほど説明した通り、雨という題材を取り上げ、それに、母が迎えに来てくれるという要素を加えている。母の存在により雨の本来持つ暗いイメージが吹き飛ばされている。2番では、母親との帰路が楽しい様子が引き継がれている。鐘の音という題材もどこか楽しげである。

 そして3番である。3番では、迎えが来ない子供という1,2番とは対照的な存在が出てくる。「あのこ」は雨に濡れ泣くことで雨の本来持つ陰気さを呼び戻している。4番で再び「かあさん」と「ぼく」が登場し、「あのこ」に傘を与えることで、2番までの楽し気な雨のモチーフと「あのこ」とが融合する。5番は、4番をさらにまとめて詞を結んでいく。こうして読むと

起:雨、母の迎えという場の設定

承:母との帰路の描写

転:「あのこ」により本来雨の持つ陰鬱さを描写

結:傘を与えることにより陰鬱さを母との帰路に取り込みまとめる

と綺麗に起承転結になっていることがわかる。ゆえに、この「あのこ」の存在はオカルトめいたサイドストーリーを用いずとも十分に説明できる。

3.都市伝説以外のストーリーの解釈

 まず前提としてなぜ母が迎えに来るのか。雨が降っているからなのだが、それだけでは足りないと考えている。「あのこ」のように雨が降っていても傘を持っていない人間がいるということは、雨は突然降りだしたと考えられるからである。すなわち、出かける際に雨が降っていれば傘を持って出るのが通常だからである。僕は、生来傘が嫌いだった、そのうえ小中学校の時分などは、雨が降れば家と学校のほかどこにも立ち寄らず、しかも公共交通機関なぞも使わないから濡れていても誰に迷惑がかかるものでもなかった、なので傘を持ち歩く習慣もなく雨が降っても濡れて帰るのが当たり前であった。そういう特殊な人間を除けば、通常は出がけに雨が降れば傘を持って出るだろう。そうすると、「あめふり」にうたわれている雨は、帰る際またはその少し前から降り始めた雨だということができる。

 次に「母」が迎えにこないことは異常事態なのか。「あめふり」の発表は大正14年である。もちろん携帯電話などない。母も母で都合があるから迎えにくるとは限らない。母親が迎えに来ないことは何ら不思議ではないと思う。

 先述のブログなどは、4番の詞にある「たまえ」という表現が上から目線であるという指摘がある。「たまえ」の辞書的な意味は以下の通りである。

補助動詞「たまう」の命令形

 恩恵をお授けください与えくださいの意を表す。現代では文語的な文に用いる。「神よ恵み垂れ―」

 (給え友人または目下の者に対する、穏やかな命令の意を表す。明治時代書生言葉から。「まあ、席につき―」「君も一杯やり―」

 

 ここで使われているのは、おそらく2の意味であろう。「友人」にも使える表現であって、必ずしも見下す表現ではなさそうである。実際

僕はあの人物を知らなかったので君に大変失敬した勘弁し給え(坊ちゃん)  

メロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれたまえ、とさらに押してたのんだ(走れメロス

など文脈上明らかに上から物を言うべきでないシーンで「たまえ」が用いられており、ここでも上から物を言う意図は一切なかったということができる。

 そして、この詞には、他に嫉妬や川(池)を思わせる描写も「あのこ」の母親がどうなっているかの描写もないのであるから、母が死んで迎えに来てくれない「あのこ」が嫉妬から走り出し川に落ちて死ぬという解釈は成り立ちえないということができる。「あのこ」が一人である理由は母の死以外にも十分合理的に説明できる以上このような解釈をとることは不適切であると思う。もっと言うと、「あのこ」が少女であるかどうかもわからない。昭和12年刊行の講談社「童謡画集」の挿絵では、傘を受け取る「少年」が描かれている。そこには、陰鬱さは見受けられない。当該挿絵は以下のサイトで確認できる。

www.worldfolksong.com

 

4.まとめ

 今回は、僕の好む北原白秋の詞と都市伝説を紹介した。僕は都市伝説が好きだがどちらかというとこういうアプローチで都市伝説を紐解くことが好きである。今回、この都市伝説をピックアップしたのは、こういった謎解き以上に、この詞の美しさ素晴らしさを知ってもらいたかったからである。都市伝説による恐怖のフィルターがかかるとこの詩が本来持つこういった魅力がぼけてしまう。それではあまりに残念である。

そうした理由で今回この都市伝説に関して取り上げた。

超短編 愚痴

「ええっ!?いいじゃないですか?やりましょうよ」
同僚が間の抜けた太鼓持ち芸人のような調子で騒いでいる。
どうやら部総出の忘年会の予定がご破算になったらしい。
もっとも、総出といってもその頭数に自分は含まれていな
かった。そのことは、彼が悔しがっているこの会の存在に
今の今まで気が付かなかった一事をもってしても証明十分
であった。
 同僚は、体育会系の気遣いのできる優良な人物であると
いうのが専らの評判であった。しかし、その気遣いという
のも自分の群れの仲間にのみ向けられているようであった。
私は、はっきりと蚊帳の外にあった。
なおも同僚は「やりたかったナァ、鍋パ」などと無邪気に
とぼけていた。
 私は、部外者のレッテルを張られた不快感と、「気遣い
ができる彼」の正体を見て沸き起こった憐憫からいたたま
れなくなり室を飛び出した。
冬の風はひどく冷たかったが、誰に対してもこうなのだな
と思うと逆に妙な温かみを感じた。人もこの方がずっと素
晴らしい、相手が乞食であろうと社長であろうと冷たく「
おとといきやがれ」と言ってのける人間の方が、どんなに
か親切であろう。
コンビニでは、来週に迫ったクリスマスを前にクリスマス
ソングなど流している。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あな
たがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人
にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降
らせてくださるからである。」
は、聖書の言葉であるが、私の愛すべき「隣人」には確か
にこのような感覚を持ち合わせてはいないようだった。
今日もこの国は、キリスト教でもないのにクリスマスソン
グなど流している。

反社会論

 三島由紀夫氏の著作に「不道徳教育講座」というものがあ
ります。
これは、井原西鶴の「本朝二十不孝」を手習いに当時の現代
青年のために不道徳を説いた作品です。読まれる対象も青年
を意識していますから、たとえば「先生」のような大人を小
ばかにする内容がたびたび出てきます。
そこで、私もこれにならって、大人社会を批評して後世の大
人たちのために少しでも役に立てたらと思って、筆を執りま
す。

 よく青年が、「大人」になるときに「社会は甘くないぞ」
といわれることがありますが、これがまず滑稽の極致といえ
るでしょう。大体人間というものは、老いも若きも放ってお
くとみなダメになってしまいます。もっとも大人というもの
はこれで1個の自由な存在だと考え違いをして、またその考え
違いにみんなして陥っているわけですから、誰もこれを正
す者などいません。いわば、人間の美しい部分が錆びついて
しまうのです。これを古代中国の孟子は「性善説」といいま
したが、反対の考えの性悪説でも根本は同じで、これは要は
立場の違いです。性善説の紳士の目から見ればお世話をして
くれる召使がないために、性悪説の奴隷の立場から見れば鞭
打つご主人様がいないために、人間は自由に落下していくわ
けです。
 ここで、人間がただ落下してダメにになっていくとすると、
これは万人の万人に対する闘争ですから、大人の寄り合い所
帯であるところの「社会」とは少しく様子が異なってくるか
なとは思います。しかし、大人というのは動物的な自由さと
ともに、奴隷的でもあります。これを一般的な用語で申し上
げますと、家畜となります。こうした意味では、依然として
寄り合い所帯であるわけです。
社会は家畜人間の寄り集まったものですから、当然牧場主がい
るわけです。しかし、それは現代では臣民に超然する君主や造
化の絶対神といったものではなく、お金です。この悪しきシス
テムに最初に気が付いた英国のアダム・スミス氏は「神の見え
ざる手」などと述べましたが、まさにこの「見えざる手」が我
々社会に生きる家畜人間の手綱を握っているわけです。
 さて、社会は甘くないぞという呪いの言葉をもって社会の洗
礼をうける青年は非常に多いわけですが、社会は甘くないとい
う言葉がどこで使われるかというと、たいていは職場において
であります。つまり、職場で上司からこのようなお言葉を賜る
わけです。職場とは仕事をする場所ですから、社会は甘くない
は仕事すなわち金もうけは甘くない、我慢せよということにな
ります。お金が無いと生きていけないのが「大人」の世の中で
すからお金のために歯を食いしばって皆我慢しているわけです。
これではおあずけをくっている犬と同じではないですか。もち
ろん青年も我慢をすることはありますが、そこでの我慢はもっ
と知的です。そう考えると大人というのは、青年より幾分頭が
悪いことになりそうですがいったいなぜでしょうか。
 生物というのはよくできていて自分の能力のうち、必要なも
のを発達させ、またはこれを応用してさらに素晴らしいものに
仕上げます。一方で必要のないものは切り捨てていくのです。
これを進化と言ったり退化といったりしますが、こうした合理
性が生物に備わっているのは一種の奇跡でしょう。
 青年の生活には、様々な要素が必要になります。暴力や色恋
や芸術的感性もここに含まれていきます。しかし、「大人」に
なるとこれらは役に立たないものになります。大人は生存に必
要なお金だけを欲するようになるのです。生物は合理的ですか
ら脳みそから金儲け以外は排除しますし、興味もそこに集約さ
れるのです。ここで、意地の悪い読者であれば、大人にも芸術
を好む者がいるし、色恋に明け暮れる者もあるではないかとい
う人がいるでしょう。しかし、それは大抵の場合、大人に背を
向けた20歳以上の子供(これを社会では社会不適合と呼ぶようで
す)か、その人物への観察が足りていないかのいずれかの場合
がほとんどです。
これらを好む人物をよくごらんなさい。おおよそこんなところ
でしょう。
ビジネスマンのA氏は、芸術を好んでいます。彼は、東京のさる美
術館が開催している特別展へと足を運んでいる。展示会の目玉は
かのルネッサンスの巨匠、レオナルド・ダ・ヴィンチの名作
モナ・リザ」です。
「おお、これは素晴らしい」
「一体、この絵はいくらなのだろう。きっと想像も及ばない額に
ちがいない」
「こんなものをわが家のリビングにでも飾れたらきっとしゃれてる
だろうな」
などと空想を働かせながら、彼の頭の中には、豪邸でバスローブ纏
い高級なブランデイを片手にあのモナ・リザのほほえみを見つめる
彼の姿があるわけです。彼は彼で、富豪には及ばないもののなかな
かの高給取りですから、ディナーもまた豪華です。彼は美食家とし
て聞こえているので、都内の一等のレストランへ通うのです。恋多
き彼は、ここで美女と夕食をともにします。女性は、その若き美貌
を宝石や、高級な化粧で覆った、いかにも現代的な都市女性であり
ます。現代都市女性を前に、彼が語るには
「このレストランはミッシュランの星付きでね」だとか
「この素材は、最高級の」だとか
「このコースは1人何万円」だとかいう話です。
青年諸氏にとっては、こんな会話は下の下でそれこそ食事すら悪く
なってしまうようなものでしょうが、彼らにとっては少しも堪えま
せん。
それどころか、そういう会話をしながら、彼は口の中に数万円を放
り込んでいくのです。女性もこれを興覚めとも思わないで無邪気な
相槌を添えてやはり口に数万円を放り込んでいきます。こうして彼
は都内の家賃数十万のマンシヲンに帰っていき、カナダかそこらの
寝台に入って明日の仕事に思案しながら眠りにつくのです。
以上が、芸術を知る「大人」の典型行動ですが、その無理解で青年
をはるかに凌駕していることは明らかでありましょう。
このように人の人たる部分を大人になると失うのですが、そういう
ものに限って最も人間的であると声を大にして主張するのです。
青年は、大人に大いに反抗しなさい。生活に難儀することはあって
も人間として大人の「社会」に順応するためには、これしかないの
です。順応の権化である官僚や社長といった人種が世の中で最もつ
まらない人間たちで構成されているのはこれが理由です。

 

 

トロッコ問題と過去の栄光

僕は、本当に人から評価されたことがない。

高校生の時分には、教師から「お前は褒められたことがないだろ」と言われたこともある。事実だから反論もできない。なにせ、高校生ともなれば、なにがしかの褒賞を受けた経験などあってしかるべきなのに、それがなかったのは事実であるから。しいてあげるとすれば、市のウォークラリー大会で3位入賞を果たしたことぐらいであろうか(ただ、この件の最大の功労者は、途中でもう歩けないと言って、休憩を求めたチームメイトだろう。※ウォークラリーは設定された時間から早すぎても遅すぎても減点となる)。

さて、前振りが長くなったが、タイトルに関係する本題に入りたいと思う。

このように誉のない人生を歩んできた僕なのだが、学生になって間もないころ一度、全員の前で評価をいただいたことがある。それが、教養科目で文章を作成する課題であった。我々のクラスを担当していたのは、法哲学者であったため、課題の内容も当然そのようなものであった。それが、表題にある「トロッコ問題」である。もっとも、何の知恵もないときに書いたものであるから、粗さや、これまでの議論の積み重ねを全く無視したものである点は否定できない。そのうえで、今回なぜ、こんな記事を書くかというと、それは以下の理由による。トロッコ問題自体は有名なので、多くの教育機関で課題として出されていると思う。なので、その解法に手間取っている人も多いかと思う。そこで、このような考え方があることを世に残しておくことも重要かと思い、今回この記事を書いている。もちろん、僕の数少ない過去の栄光を残しておきたいというエゴが記事作成の衝動を突き動かしているという側面があるのも事実である。

 

第1 トロッコ問題とは

あらためてトロッコ問題をご存じない人のために、トロッコ問題の設例そのものをここに挙げておく。

 

線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。

 この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?

 

第2 私の解法

 1 問題点を分析

   まず、問題点はなにかを検討せねば解答は得られない。そこで、この問題点

  はなにかを考える。問題点は、結論を導くための道具になる。そのため結論は何か

  を考える。結論はもちろん「トロッコを別路線に引き込むべきか」である。トロッ

  コを引き込むかは、ある行動を選択するか否かということである。そのため、行動

  を選択するとは何かを考える必要がある。そして、行動の選択に関していずれが価

  値が高いのかを考える必要がある。価値が高い行動をとるべきということができる

  からである。

 2 行動の選択とは

  ⑴ 積極的な行動

    行動の選択とは、ある行動をするかしないかということである。しかし、ある

   行動をしないということは、しないということをするともとらえられる。前者を

   積極的な行動といい、後者を消極的な行動という。積極的な行動の選択を強いら

   れた場合は、その行動から、発生する行動のいずれが良い結果を生むかに従えば

   よい。両者がともに良い結果を生む場合は、自分の好むところに従えばよいし、

   悪い結果を生む場合も同様である。

  ⑵ 消極的な行動

    では、消極的な行動をとるべき場合はいずれか。人間の選択、行動は有限であ

   る。そのため、ある時点で実際に採ることができる選択は一つである。したがっ

   てある行動を採ったそのうらでは、それ以外のあらゆる行動に対して選択しない

   という行動、すなわち消極的な行動をとったということができる。消極的行動は

   積極的行動の反射的な位置にいるということができる。そうであるならば、消極

   的行動を「積極的に」とるべき場合というのは、積極的行動をとることによりよ

   り悪い結果が生まれる場合のみである。両者がともによい結果を生むときは、自

   分の好むところに従えばよい。しかし、両者がともに悪い結果を生むときはその

   行動を選ぶべきではない。なぜなら、消極的行動とは一定の行動ではなく、積極

   的行動以外のあらゆる行動ということになるからである。すなわち、積極的行動

   を選択したということは、あらゆる選択を排して、悪い結果をうむことを選択し

   たということができるからである。

 3 命の選択

   命は、最上の価値を有する。ここでは、そのように設定する。最上の価値を有す

  るものの価値は絶対である。そのため、命の価値は無限である。無限であればその

  価値は量的に比較できない。そのため、1人の命と100人の命は、いずれも無

  限の価値を有することになる。命の数によって、その価値の比較はできない。

 4 検討

   スイッチを切り替えた場合、失われる命は、1である。切り替えない。すなわち

  静観する場合は、5である。しかし、先述の通り、その価値は数量的に比較できな

  い。そのため、いずれを選択しても無限の価値の喪失という悪い結果を引き起こ

  す。切り替えるは積極的行動、切り替え内は消極的な行動である。積極、消極い

  ずれも悪い結果を引き起こすときは、その行動を採るべきではない。

 5 結論

   よって、Aは、別路線に引き込むべきではない。

 

春眠不覚暁

数日ぶりに春の陽気の中でうららかな心地になっている。
こんな日は本当は業務もしたくない。しかし、世間が休日
であっても、働かなければならないのはやはりつらい。
学生の時分は、春の陽気にさらされて、学業など忘れて
空港近くの公園で一日中横になったものだ。それほど、春
の陽気の魅力は強く、人を堕落させる。
春の心地よさをこういった側面から切り取ったものに孟浩
然の「春暁」がある。僕はこの詩が大好きだ。
春の心地よさに共感できるという点がひとつ。
起承転結が非常にわかりやすいところがもうひとつ。

春眠不覺暁 春眠暁を覚えず
處處聞啼鳥 処々に啼鳥を聞く
夜來風雨聲 夜来風雨の声
花落知多少 花落つること知る多少

春の眠りは心地よいので、寝坊しっちゃた
ところどころから鳥が鳴いているのが聞こえるなあ
そういえば昨晩は雨風の音がしていたっけ
花はどれくらい落ちてしまったんだろうなあ


起句の「春眠暁を覚えず」テーマは春、朝であって
起きられない(おそらく寝具の中にいること)がわかる。
春ということから、うららかなイメージ。起きられないのは
心地よいからであろうことがわかる。「暁」は単なる明け方
の意味だけれども、この言葉から晴れているのだろうことも
想起される。
承句で春の朝に起きられないという話を受け継いで、鳥が鳴
いているという題材をもってくる。朝チュンなんて言葉もあ
るようにこれは朝に親和的だ。「処々」というところから起
きてないけど聞こえるなーといった、投げやりな感じも捉え
られる。
転句は打って変わって、朝から夜へ。晴れていたところから
雨へ、穏やかな春の眠りから、風の音がする状況へと変わる
結句になると再び朝に戻り、しかも雨の話も受け継いで、花
落ちちゃっただろうな、どれくらいだろうな(でもだるいの
で起きられないや)とまとめる。

こういう味わいのある詩は有名な詩には多く見られる。今回
は春がテーマだったのでこれを紹介した。もちろん、これ以
外の解釈もあるかもしれない。でも、絶句を味わう際には是
非とも起承転結を意識してその味わいを反芻してほしい。

超短編小説ーある日の食堂 

 男と女が入ってきた。女は男よりも一回り、ともすれば二回りも年下に見えた。男には首から大きな一眼レフカメラを提げているほかこれといった特徴はなかった。きっとモデルとアマチュア・カメラマンなのだろう。どしどしと食堂の奥にすすむ一眼レフカメラの後ろをちょこちょこと女性はついていった。
「ここはねえ、玉子焼きが美味いんだよ」
男は、得意げにそう言った。女の方は、少し間をおいてから
「玉子焼き、えへへ……玉子焼き……」
と呟くばかりであった。
 私は、食事代を払うと、店を出た。摩天楼の間にのぞく小川のような空を見上
げて一眼レフだけは買うまいと心に誓った。