記名は記名押印、署名は署名捺印の略。まことしやかに語られる誤解とそのルーツに迫る。
※結論だけ知りたい人はここを読んでほしい。
最近、記名は記名押印、捺印は署名捺印の略だという記事が散見される。しかし、そんなことはない。昔は捺印という語が用いられていた(というよりは、捺印と押印が区別されず用いられていた)。これが、政府の単語を統一しようという方針のもと「押印」に一本化されただけである。なので、両者は全く同じ意味だ。それ以上の情報を知りたい人は以下の本文を読んでほしい。
先日仕事のメールをチェックしていたら、「捺印」という言葉のあるのを発見した。普段は自分も周囲も「押印」という言葉を使っていた。ゆえに「捺印」という言葉を久しく見聞きしていなかったし、「そんな言葉もあったなあ」という感慨に浸っていた。ふと「捺印」と「押印」とは使い分けられるのかという疑問が起こった。正直、過去も現在も僕は両者の言葉に意味上の違いはほとんどないと思っていた。しかし、インターネットで検索をしてみると僕の知らない両者の区別が唱えられていることに気が付いた。それが、タイトルにもかかげる「署名捺印説・記名押印説」だ。そこで、この説について紹介するとともに自分なりに考察を加えてみたい。
第1 署名捺印・記名押印説とは
署名捺印・記名押印説(以下「記名押印説」という)とは、簡潔にいえば「押印」は「記名押印」が省略されたもの、「捺印」は「署名押印」が省略されたものであるとする説である。ここでは、この説を紹介する代表的なWEBサイトを紹介する。
ここでは、このように紹介されている。
捺印(ナツイン)と押印(オウイン)の違いはなんでしょうか?捺印と押印は、どちらも印鑑を押す(捺す)という意味に変わりありません。
捺印とは署名捺印が略された呼び名となります。
押印とは記名押印が略された呼び名となります。つまり「署名」か「記名」かによって、「印鑑を押す行為」の呼び方が変わってきます。自分が名前を手書きした書類に印鑑を押す行為を「捺印」、手書きでない名前が記載された書類に印鑑を押す行為を「押印」と呼びます。
つまり、記名か署名かによっていわゆる「はんこをつく」行為の呼び方が変わるのだ。なお、記名は「氏名を記載すること」、署名は「自署すること」である(内閣府「地方公共団体における押印見直しマニュアル」3頁等)。そのため、もしこの区別が本当であるならば「捺印」を求められた際に記名とともにはんこをついてしまったら一大事ということになる。
第2 捺印と押印は使い分けられているのか
1 字義の解釈
まず、「捺」と「押」という字が使い分けられているのか。換言すれば、両者の間に なにか署名又は記名の概念となじみやすい意味が含まれているのかを検討する。両者の間にそのような要素が含まれていないとすれば、「押印」と「捺印」との間には意味上の違いはないことになる。そうであるならば、字義的には記名に押印、署名に捺印でなくてもよいことなる。
今回使用した辞書は、大修館書店『新漢語林』、諸橋轍次ほか『新漢和辞典』(改訂版)、『漢字辞典ONLINE』(https://kanji.jitenon.jp/)、漢典(https://www.zdic.net/)である。意味をまとめる以下のようになる。
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押 |
捺 |
漢辞林 |
1.おす。おさえる。 2.かきはん。自分の名の下に各様式化したマーク。 |
1.おす。おさえつける。 |
1.かきはん。 2.おす。また、おさえる |
1.おす。おさえつける。 |
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漢字辞典 ONLINE |
1.おす。おさえる。おしつける。 (中略) 4.かきはん。署名。また署名の代わりに用いる記号。 |
おす。上からおさえつける。 |
漢典 |
契約書にサインまたは記号を書く |
手で押さえる、抑制 |
以上から、両者とも意味は基本的な意味は「おす」である。また「押」の方には、「署名する」という意味すらあることがわかった。そうすると、むしろ押印の方が署名になじみやすいのではないかとさえ思える。少なくとも字義上は、捺印(印ヲ捺ス)が署名と親和性があるとはいえない。いずれにしても「印をオす」行為が「押印」であり「捺印」であるから、両者に字義上の違いはほとんどないといえるだろう。
2 使い分けがされているのか
「押印」と「捺印」との間には字義上の違いはなかった。それでは、実社会で両社は区別されて使用されているか、または「押印」は「記名押印」の「捺印」は「署名捺印」の略として使用されているのか検討する。この説を取り上げるサイトの多くが法的な話と関連付けて記事を作っているため、法律・行政においてこのような使い分けがされているかという視点で検討する。
⑴ 法律
まず法律上に「捺印」が用いられている例を挙げる。一つ目は「外国人ノ署名捺印及無資力証明ニ関スル法律」である。法令名にも「署名捺印」の語が出ている。もっとも第1条の内容はこうだ。
1項 法令ノ規定ニヨリ署名、捺印スヘキ場合ニ於テハ外国人ハ署名スルヲ以テ足ル
2項 捺印ノミヲスヘキ場合ニ於テハ外国人ハ署名ヲ以テ捺印ニ代フルコトヲ得
1項では、「署名」と「捺印」との間に読点が打たれている。そのため、法令名の「署名捺印」とは「署名」「捺印」を並列させたものであると考えられる。また、2項は「捺印ノミヲ為スヘキ場合」と規定していることから、ここでいう捺印は署名が予定されない捺印を含んでいることになる。したがって、この法令上は「署名捺印」の略として「捺印」は用いられていないことになる。
二つ目は「手形法」である。附則82条は以下のように規定する。
本法ニ於テ署名トアルハ記名捺印ヲ含ム
ここでは、記名捺印という語が出ている。一方で政治資金規正法14条3項の規定はこうだ。
前二項の規定により引継ぎをする場合においては、引継ぎをする者において引継書を作成し、引継ぎの旨及び引継ぎの年月日を記載し、引継ぎをする者及び引継ぎを受ける者においてともに署名捺印し、現金及び帳簿その他の書類とともに引継ぎをしなければならない。
次に法令上に「押印」が用いられている例をあげる。民事訴訟法228条4項は以下のように規定する。
私文書は、本人又はその代理人の署名又は押印があるときは、真正に成立したものと推定する。
また、商法546条本文は以下のように規定する。
当事者間において媒介に係る行為が成立したときは、仲立人は、遅滞なく、次に掲げる事項を記載した書面(以下この章において「結約書」という。)を作成し、かつ、署名し、又は記名押印した後、これを各当事者に交付しなければならない。
ここでは、記名押印の語が出ている。なお、署名押印の例は見つからなかった。もっとも、民事訴訟法の規定における「押印」が記名押印のみをさすとも考えられない(つまり署名に押印してもよい)。押印・捺印は署名、記名双方と結びつく言葉であり、押印と捺印との間に厳密な使い分けは法令上は存在しないといえそうである。なお捺印という単語が出現する法令は古いものが多く、「捺印」という言葉が「押印」に入れ替わったものといえそうである。実際、大正15年民事訴訟法326条(以下「旧民事訴訟法」という)が現行民事訴訟法228条に対応する条文であるが、そこでの規定は以下の通りであった。
私文書ハ本人又ハ代理人ノ署名又ハ捺印アルトキハ之ヲ真正ナルモノト推定ス
新旧いずれにしても当該規定は、「署名」か「はんこ」があれば文書が真正に成立したと推定する規定であるが、署名があればはんこがなくても文書の真正は推定されるため、旧規定の「捺印」を「署名捺印」であると解すると、「捺印アルトキハ」との規定は無意味な規定になる。そのため、旧民事訴訟法の「捺印」を「署名捺印」と解することはできないであろう。そうすると、法令上の「捺印」は「押印」の古い言い方であり、意味は同一であるものの民事訴訟法は改正の際にこれを改めたと考えるしかない。実は、このことは、他の文書から明らかなのであるが、それは後述する。
⑵ 行政
「捺印」の語を用いている文書として平成2年運輸省告示第588号「標準鉄道利用運送約款」がある。付保46条1項は以下のように規定する。
利用運送の申込に際し、当社の申出により荷送人が承諾したときは、当社は、荷送人の署名又は記名捺印をいただき、荷送人の費用によって運送保険の締結を引き受けます。
一方で、押印を用いる例は散見される。ここでは一例のみあげる。菅内閣発足当初の目玉政策?であった「脱はんこ」に関する「地方公共団体における押印見直しマニュアル」(内閣府)がそれだ。タイトルにも「押印」が使用されているが、注目すべきは以下の部分である。
(ii)署名見直しの判断基準
署名については、一連の行政手続の中で押印と同時に、又は押印の代替とし
て求められることが多いため、押印見直しに併せて署名も見直すことが課題に
なります。押印を見直した場合において署名を見直すにあたっての判断基準は
以下のとおりです。
基準①根拠規定が「署名及び押印」:署名を求める実質的な意味の有無
解説:署名及び押印の両方を求めている手続について、押印を求めず署名のみ
を残すことは手続の簡素化であり、署名に実質的な意味があると考えられる場
合には、引き続き、署名を求めることは認められるものと考えられます。
基準②根拠規定が「署名又は記名押印(認印可)」
:署名を求める実質的な必要性の有無
解説:署名、記名押印のうち、いずれか一方のみを求めている手続について、
記名押印のみを廃止し、全ての申請者に署名を求めることは、申請者の選択肢
を狭め、実質的に規制強化となりますので厳しく検証することが求められます。
記名押印(認印可)により代替可能とされてきた署名についても、原則として
不要と考えられます。
ここで、基準①の「押印」を「記名押印」と解する場合、署名の上にさらに記名をしなくてはならないことになる。しかし、そのように解釈するのは無理があろう。そのため、ここでの「押印」は単に「はんこをつく」行為であると考えられる。そうであるならば「署名及び押印」という語は、「署名押印」を意味することになる。ここでも、「押印」は「記名押印」、「捺印」は「署名捺印」という語の使い分けはなされていないといえる。
実は「捺印」を用いる文書は古いという根拠が存在する。それは平成22年11月30日内閣法制局総総第208号「法令における漢字使用等」である。同文書⑹は以下のように公用文のルールを定めている。
次のものは、( )の中に示すように取り扱うものとする。
(中略)
捺 印(用いない。「押印」を用いる。)
すなわち行政や法令上では、捺印は押印と同義であり、両者の違いは法令が古いか否かのみであるといえる。
第3 小括
以上から、「捺印」、「押印」の間には字義上の違いはないこと、法令上・行政文書は「捺印」、「押印」、「署名及び押印」、「記名捺印」、「記名押印」、「署名捺印」の語が混在していること、このような混在は公用文ルールの変化により「捺印」を用いない運用になり、代わりに「押印」を用いるようになったためであることが判明した。以上から「押印」と「捺印」は同義であり、両者は「署名捺印」、「記名押印」の略でないことといえる。
第4 署名捺印・記名押印説のルーツ
では、このような説はいつから発生したのであろうか。また、なぜそのような説が発生したのであろうか。この説を取り上げる以下のサイトを例に検討する。
- 押印と捺印の違いについて(以下「呼び名」という)
- 「押印」と「捺印」の違いとは?ハンコにまつわる豆知識①(以下「ドキュサイン」という)
- 「押印」と「捺印」の違いとは?正しい使い分けや敬語表現も解説 | TRANS.Biz(以下「トランスビズ」という)
- 「押印」と「捺印」 (半沢直樹でもでてきました) | よしどめ内科・神経内科クリニック(以下「よしざわ内科」という)
- 「捺印と押印」の違い、「印鑑とはんこ」の違い、「署名と記名」の 違いが分かりますか? | 想いをしるしに(以下「小林大伸堂」という)
- 「署名」と「記名」、「捺印」と「押印」はどう違う?法的効力にも関わる知っておきたいこと! | Bizer(以下「Bizer」という)
- 押印と捺印の違いとは? 使い分けや電子印鑑を使うメリット・デメリットを紹介 - オフィスのミカタ(以下「オフィスのミカタ」という)
- 「記名」と「署名」、「押印」と「捺印」って何がちがうの?(以下「ドリハム」という)
- 「捺印」と「押印」の違いって何? 言葉の意味や使い分け方とは?【ビジネス用語】 | マイナビニュース(以下「マイナビ」という)
- 署名捺印・記名押印・契印・割印・捨印〜契約書に押す印の意味を正しく理解しよう | キムラボ 税理士きむら あきらこ(木村聡子)のブログ(以下「キムラボ」という)
- 署名と記名、捺印と押印|知っておいて損はない!【はんこ豆事典】(以下「豆事典」という)
どのサイトも基本的な構造として、押印と捺印の語の違い、押印のみ、記名押印、署名のみ署名押印それぞれの法的な効力に違いという構成でなりたっている。もっとも法的な効力については、「証拠能力」、「証拠力」、「証明力」、「信頼性」など表記に揺れがある。なお、「証拠能力」や「証明力」の概念は異なるし「信頼性」という語も文書の内容の信頼性という意味であれば、押印の有無と本質的には関係ないので、法的効力の説明についても誤りが見受けられるサイトがある。以上から、これらのサイトはある文書又はある文書を引用した別の文書から派生していったと考えることができる。そこで各サイトの投稿日時や更新日時、法律上の効果の理解に関する誤り、引用条文の傾向からどれがより古いものであるかを検討する。ここでより古いといわれるものがこの説の源流である可能性が高い。
サイト |
日時 |
法的効力 |
引用条文 |
書き方 |
タイプ |
小林大伸堂 |
14.12.9 |
効力 |
なし |
非断定調 |
印鑑業者 |
Bizer |
16.9.29 |
証拠能力 |
民訴228 商法32 |
断定調 |
ビジネス |
19.2.19 |
法的効力 |
商法32 |
断定調 |
ビジネス |
|
ドリハム |
19.7.10 |
法的効力 |
なし |
断定調 |
不動産 |
キムラボ |
19.7.18 |
証拠能力 |
なし |
断定調 |
ビジネス |
トランスビズ |
19.10.10 |
証拠能力 |
なし |
断定調 |
ビジネス |
ドキュサイン |
20.11.19 |
証明力 |
なし |
断定調 |
ビジネス |
よしざわ内科 |
20.12.18 |
記載なし |
なし |
断定調 |
日常ブログ |
オフィスのミカタ |
20.12.23 |
効力 |
商法32 |
断定調 |
ビジネス |
呼び名 |
不明 |
証拠能力 |
なし |
非断定調 |
印鑑業者 |
豆事典 |
不明 |
証拠能力 |
商法32 |
非断定調 |
印鑑業者 |
このようにみると、記録上は小林大伸堂の記事が最も古い。しかしながら、豆事典の方が記事としては古く、記名押印説の出所はこのサイトであると考えている。
まず引用条文としては商法32条が最も多い。そのため、この説の元となった記事には商法32条を引用されていたと考えられる。また、商法32条は平成30年5月に削除されているため豆事典はそれ以前に書かれた可能性が高い。さらに、豆事典のみが「新商法」という記載をしている。2005年改正によって、商法32条に署名関連の規定が追加された。そうであるならば、商法についてわざわざ「新」と断っている豆事典はこの時期に作られたものである可能性が高い。また内容も「捺印と押印の違いにつきましては、どちらも“ハンをおす”という行為を表している言葉であり、「押捺」(おうなつ)という言葉もあるぐらい、全く同じ意味を持ち、使い分けられることも少ない言葉です。当店では、署名という行為が並行してあるものに捺印(捺す)の文字を使い、記名した場合や印鑑のみを押すだけの行為に対して、押印(押す)の文字を使い、両者を使い分けています。」と最もマイルドである。豆事典では店の独自ルールとして、「捺印」と「押印」を使い分けていると述べている。もし、世間一般や業界一般でそのような使い分けがなされているのであれば、このように断る必要はまったくない。このことからも、このサイトの記載が古いものと判断した。したがって、記名押印説は、このサイトで述べられている独自ルールが一般常識のように変容していったものと考えられる。
表を見ると、記名押印説を取り上げているのは、印鑑業者とビジネス関係のサイトが多い。印鑑業者のサイトの記事は、捺印と押印の違いはないがしいて言うならば捺印は署名とセットというような非断定的な記載となっている。投稿はビジネス系の記事を中心に2019年が多い。さらに、19年最初の記事は、閲覧数も多く影響力が強いと思われるマイナビの記事である。一方で印鑑業者のものは、これ以前と推定されるものが3件中2件である。
したがって、もともと印鑑業者が「しいて言うなら」等の前置きを置いて独自の解釈として使い分けを行っていた押印、捺印の語をマイナビ掲載の記事の執筆担当者が参照し「ハンコ業者がそういっているならば、それが正しいだろう」という意識の下、断定調の記事にしたものであろう(このあたりの経緯は、A玉B玉説に近いものを感じさせる)。これを見た他の記事執筆者がマイナビ記事を引いて記名押印説が定着していったものと思われる。
第5 結語
今回は、記名押印説のおそらく源流といえる記事が発見され、その内容が変質・定着する過程をおぼろげながら追うことができた。他のネット語源説もたいてい同じような経緯をたどっているのではないかと思われる。