えさ台に鳩がくる

日々の思ったこと、書く

北原白秋と都市伝説と

1イントロダクション

 

 北原白秋は、僕の大いに好む詩人だ。彼の名は、多くの人にとっては、短歌や詩としてよりも童謡の方で有名であろう。

その中でも特に有名な作品は「あめふり」で間違いないと思う。

この「あめふり」童謡ながら、非常に詩的であって、素晴らしい作品である。

最も有名な歌詞は以下の1番の歌詞だろう

 

あめあめ ふれふれ かあさんが

じゃのめで おむかい うれしいな

ピッチピッチ チャップチャップ

ランランラン

 

 雨というモチーフは、どちらかというと暗いネガティブなものである。皆さんも雨の日はなんとなく気分が塞ぐだろう。その雨を題材にしているのに二言目は「ふれふれ」とくる。ここで、本来降ってほしくない雨に対してもっと降れと来ている不思議な感覚から、読者は詞の世界に一気に引き込まれる。しかし、なぜかというのはすぐわかる、母親が迎えに来てくれるからだ。ここで雨と母親が来てくれる嬉しさが融合する。雨音と子供の足音の軽やかさがまじりあったオノマトペで締めくくられる。

非常にきれいでまとまった無駄な部分のない美しい詞であると思う。

 このように「あめふり」の詞は卓越した名作である。しかし、この詩にも都市伝説が存在する。内容は細部が微妙に異なっているものの大枠では以下のサイトに掲載されているようなものである。冒頭の怪談部分は、今回扱う内容とあまりに異なるためあえて言及しないが、歌詞についての部分については、軽く触れておきたい。

 

www.kkbox.com

33man.jp

 

この都市伝説は、以下のような構成でできている。

1,「あめふり」の3番に出てくる「少女」は霊的な存在である

2,「あめふり」の詞は傘をさしてもらえない少女の嫉妬と怨念の歌である

3, ゆえにこの歌の3番以降をうたうと呪われる

 

 要は、3番歌詞でいきなり出てきた「ずぶ濡れの子」に対する違和感が恐怖に置き換わって、このような噂が発生しているのということになる。そこで、今回は①「あのこ」の登場する意味が他に説明できるか②都市伝説のいうようなストーリー以外の解釈ができないかについて述べたい。「あのこ」を出す意味が詩的に存在し、都市伝説でいわれるような解釈以外のより無難な解釈ができるのであれば、私はそちらの方がより信憑性が高いと思う。

 

2「あのこ」の存在意義

 「あめふり」は大正14年に発表された作品である。全部で5番まである。以下がその歌詞である。

 

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

 

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

 

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

 

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

 

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン 

 問題になっているのは、3番で確かに見てみると他と雰囲気が違う。

では、3番の意味とは何か。僕は、起承転結でいうところの転句の意味を持たせてあるのではないかと思っている。このことは、「あのこ」の登場が3番であることとも整合する。

1番は先ほど説明した通り、雨という題材を取り上げ、それに、母が迎えに来てくれるという要素を加えている。母の存在により雨の本来持つ暗いイメージが吹き飛ばされている。2番では、母親との帰路が楽しい様子が引き継がれている。鐘の音という題材もどこか楽しげである。

 そして3番である。3番では、迎えが来ない子供という1,2番とは対照的な存在が出てくる。「あのこ」は雨に濡れ泣くことで雨の本来持つ陰気さを呼び戻している。4番で再び「かあさん」と「ぼく」が登場し、「あのこ」に傘を与えることで、2番までの楽し気な雨のモチーフと「あのこ」とが融合する。5番は、4番をさらにまとめて詞を結んでいく。こうして読むと

起:雨、母の迎えという場の設定

承:母との帰路の描写

転:「あのこ」により本来雨の持つ陰鬱さを描写

結:傘を与えることにより陰鬱さを母との帰路に取り込みまとめる

と綺麗に起承転結になっていることがわかる。ゆえに、この「あのこ」の存在はオカルトめいたサイドストーリーを用いずとも十分に説明できる。

3.都市伝説以外のストーリーの解釈

 まず前提としてなぜ母が迎えに来るのか。雨が降っているからなのだが、それだけでは足りないと考えている。「あのこ」のように雨が降っていても傘を持っていない人間がいるということは、雨は突然降りだしたと考えられるからである。すなわち、出かける際に雨が降っていれば傘を持って出るのが通常だからである。僕は、生来傘が嫌いだった、そのうえ小中学校の時分などは、雨が降れば家と学校のほかどこにも立ち寄らず、しかも公共交通機関なぞも使わないから濡れていても誰に迷惑がかかるものでもなかった、なので傘を持ち歩く習慣もなく雨が降っても濡れて帰るのが当たり前であった。そういう特殊な人間を除けば、通常は出がけに雨が降れば傘を持って出るだろう。そうすると、「あめふり」にうたわれている雨は、帰る際またはその少し前から降り始めた雨だということができる。

 次に「母」が迎えにこないことは異常事態なのか。「あめふり」の発表は大正14年である。もちろん携帯電話などない。母も母で都合があるから迎えにくるとは限らない。母親が迎えに来ないことは何ら不思議ではないと思う。

 先述のブログなどは、4番の詞にある「たまえ」という表現が上から目線であるという指摘がある。「たまえ」の辞書的な意味は以下の通りである。

補助動詞「たまう」の命令形

 恩恵をお授けください与えくださいの意を表す。現代では文語的な文に用いる。「神よ恵み垂れ―」

 (給え友人または目下の者に対する、穏やかな命令の意を表す。明治時代書生言葉から。「まあ、席につき―」「君も一杯やり―」

 

 ここで使われているのは、おそらく2の意味であろう。「友人」にも使える表現であって、必ずしも見下す表現ではなさそうである。実際

僕はあの人物を知らなかったので君に大変失敬した勘弁し給え(坊ちゃん)  

メロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれたまえ、とさらに押してたのんだ(走れメロス

など文脈上明らかに上から物を言うべきでないシーンで「たまえ」が用いられており、ここでも上から物を言う意図は一切なかったということができる。

 そして、この詞には、他に嫉妬や川(池)を思わせる描写も「あのこ」の母親がどうなっているかの描写もないのであるから、母が死んで迎えに来てくれない「あのこ」が嫉妬から走り出し川に落ちて死ぬという解釈は成り立ちえないということができる。「あのこ」が一人である理由は母の死以外にも十分合理的に説明できる以上このような解釈をとることは不適切であると思う。もっと言うと、「あのこ」が少女であるかどうかもわからない。昭和12年刊行の講談社「童謡画集」の挿絵では、傘を受け取る「少年」が描かれている。そこには、陰鬱さは見受けられない。当該挿絵は以下のサイトで確認できる。

www.worldfolksong.com

 

4.まとめ

 今回は、僕の好む北原白秋の詞と都市伝説を紹介した。僕は都市伝説が好きだがどちらかというとこういうアプローチで都市伝説を紐解くことが好きである。今回、この都市伝説をピックアップしたのは、こういった謎解き以上に、この詞の美しさ素晴らしさを知ってもらいたかったからである。都市伝説による恐怖のフィルターがかかるとこの詩が本来持つこういった魅力がぼけてしまう。それではあまりに残念である。

そうした理由で今回この都市伝説に関して取り上げた。