えさ台に鳩がくる

日々の思ったこと、書く

常識やルール

 常識・ルールは、人が社会をうまくやっていくために作られたものだ。人が社会を作るのはそうすることに利益があるからだ。社会は個人の利益を追及するものだが、一方で社会そのものという集合体それ自体の利益ができてしまった。すなわち、「社会という結合体を維持すること」が社会を構成する個人の利益となっているがために、社会が社会として存続するための利益としてこのような利益が形成されているのだ。
だから、社会のなかで生きようとするものは、社会を維持することによる利益に浴するために、この社会維持のための規範に従わねばならない。もちろん、これが理不尽なものである場合は、それに従う必要はなかろう。社会維持のために役立たないのであれば、そんな常識は捨ててしまえばよろしい。ではいかなる場合にそういうべきなのであろうか。

 正当性と正統性という言葉がある。憲法学なんかでよく扱われる言葉だ。正当性とは道理に適っていること、正統性は正しく続いていることだ。憲法は、建前上、国家成立前に社会契約的に成立するものだが、その意味では、社会のルールの一種である、常識もまた、この二つの側面から検討されるべきではないか。すなわち、常識は社会維持の利益を生み出すための個人の自由に対する規制であるから、多くの人間が受け入れられるものである必要がある。そのために必要な要素がふたつの「せいとうせい」だ。
 正統性は、昔からそうなのだから、そうあるべきだという意味で、多くの人を納得させ得る。また、昔からやってきたことを変えるということは人に不快感を与えることがある。そういう意味で社会の一員という意味で同じコミュニティ内の利益を共有する「人」を不快にさせないという合理性がある。古き道はよき道というローマの格言があるが、まさに古くから続き今もすたれていないものというものはそれなりの合理性ゆえに廃止の圧力に耐えてきたと推定される。こういう意味で正統性のあるルールは社会の中で受け入れられるべきものとなる。
 正当性はよりシンプルで、まさにそのルールがあることに合理性があるかというものである。合理性の判断の基準は、常識を社会維持のための規範と定義づけるここでは、人を不快にさせないこと、人に危害を加えないこととなろう。
 江戸しぐさというものがある。例えば

断りなく相手を訪問し、または、約束の時間に遅れるなどで相手の時間を奪うのは重い罪(十両の罪)にあたる。

のようなものだ。不用意に人の忙しい時分に尋ねていくことは迷惑となりうる。そういう意味では、このルールは、正当性はあろう。しかし問題は、その起源を江戸時代に求めたことにある。江戸しぐさは、正統性ばかりに目が向いている。しかし、正統性ゆえにそのルールが受け入れられるのは、それが多くの人にとって伝統として受け入れられているからだ。そうすると江戸しぐさの偽りの伝統では、正統性を押したところで決して受け入れられるものではないであろう。潔くこれからのマナーなどといって、現代道徳のなかに落とし込んでいった方がよかったと私は思う。

 閑話休題、常識やルールといったものは、社会を円満に生きるツールだ。子どもが常識やルールにあらがおうとするのは子どもが生きている社会は小さく、その社会の中の独自のルールで生きていけるからだ。常識やルールを真に不要とするもの
は誰の助けも得ず生きていける覚悟のある物だけであると思う。もちろん悪しき因習を守ることを推奨しない。しかし、それは常識やルールが破壊されているわけではなく、後法が前法を廃するがごとく代謝さているにすぎない。社会から一切の利益を受けないと誓わない限り、この巨大な規範群からは逃げられないと思う。